新発見 東かがわ市・さぬき市の歴史12 ~寒川清水と大川高女~

石田高校西側の道路下に寒川清水と呼ばれる東西5m、南北2.3mの泉があります。江戸時代の記録には「寒川」の由来元であることと、この場所で西行法師が和歌を詠んだことが記されています。近年石垣が崩落したため、令和3年に整備されました。

大正時代から昭和初期の寒川清水

現在、寒川清水は四方に石垣が組まれ、西側には降り口の階段がありますが、かつては石垣がなく現在とは大きく景観が異なっていました。大正時代から昭和時代初期に撮影されたと思われる『石田村風景絵葉書』には方形の掘り込みのみが見られ、中は植物が茂っているように見えます。では、いつ現在のような姿になったのでしょうか。

昭和9年の寒川清水

四国新聞の前身である『香川新報』の昭和9年11月15日には1面のトップ記事として「大川高女20周年記念式」が取り上げられ、そこに「寒川清水の改築」と題する記事があります。「大川高女」とは大川高等女学校のことで現在の石田高校の場所にありました。寒川清水はその創立20周年記念に石垣が構築され整備されたのでした。寒川清水は大川高女に隣接し、江戸時代から明治時代の様々な地誌に取り上げられる名泉であったため、大川高女のシンボル的存在でした。大正10年に創刊された大川高女の会誌「真清水」はこの寒川清水に由来して命名されています。「真清水」9号(昭和6年)には寒川清水の荒廃している様子が記されており、再三改築の意見がありましたが時機が至りませんでした。こうした状況下で大川高女創立20周年の期に整備が実現しました。改築に際しては当時の石田村村長有馬清平や村会議員の尽力もあり、現在、寒川清水の西にある石碑には当時、整備に尽力された人々の名が刻まれています。大川高女の会誌「真清水」はその後、石田高校の会誌として引き継がれていきました。

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