新発見 東かがわ市・さぬき市の歴史18 ~寒川町本村遺跡と引田城跡、雨滝城跡~

前回は東かがわ市の虎丸城の麓にある城ノ内遺跡でさぬき市大川町にある雨滝城跡出土品とよく似た土師器皿が採集されていることを紹介しました。また、その時に同じ土師器皿がさぬき市寒川町石田の本村遺跡からも出土していることを指摘しました。

本村遺跡は光明寺からさぬき東街道をわたった北側になります。現在ホームセンターがありますが、この建設に先立って平成26年に発掘調査を実施しました。遺跡の場所は南から北に延びる細長い尾根上にあって、尾根を下りた東西の両サイドは湿地帯の谷部が南北に長く広がっています。城を築けば防御性に優れた場所といえます。かつて、この地には石田城跡があり、現在の光明寺はその中心部と考えられています。発掘調査をした本村遺跡はそこから200mも離れていない場所になるので、石田城と関わる遺跡であると考えられます。

発掘調査したエリアでは建物跡を19棟検出しましたが、その中の1棟は3間×9間の南北に長い大型の特殊な掘立柱建物跡でした。また、近くに井戸跡が発見され、中からは多量の瓦片が出土しました。この瓦片は東かがわ市の引田城跡のものによく似ていることが判明しました。引田城跡は戦国時代の後、讃岐の領主として来讃した生駒親正が最初に入ったとされる城です。引田城は生駒親正が高松城を築いた後も機能し、1615年の一国一城令により廃城になったと考えられています。本村遺跡からは土師器皿や瓦の他に、備前焼、瀬戸・美濃焼、中国の陶磁器、唐津焼などが出土しています。出土遺物からは16世紀後半頃から17世紀初頭の年代が指摘でき、遺跡が機能していたのは長宗我部氏の侵攻により讃岐がその支配下となる戦国時代末期から、江戸時代に入り徳川家の支配が確立する江戸時代初頭頃と考えられます。本村遺跡は一国一城令で廃城となった引田城と運命を共にした遺跡であったのかもしれません。

本村遺跡の大型建物跡
本村遺跡の瓦
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