新発見 東かがわ市・さぬき市の歴史4 ~海女の墓石造物群の謎解き① 海女の墓石造物群の発掘調査~

四国86番札所志度寺の一画に海女(あま)の墓と伝わる苔むした石塔を中心として多数の石塔があり、海女の墓石造物群と呼ばれています。海女は志度寺に残されている『志度寺縁起』という書物に登場する人物で、飛鳥時代に藤原不比等に頼まれて海中の龍から玉を奪い返して息果てた人です。志度周辺には海女に係わる地名が残されていて、天野峠は「海女の峠」、琴電の駅名にもある牟礼町の房前(ふさざき)は海女と藤原不比等の子とされる藤原房前に由来します。

現在、海女の墓石造物の石塔に銘文は見られません。形から石塔の年代を調べると平安時代の終わりから鎌倉時代の事例が多く、一部は室町時代まで年代の下るものがあります。海女の墓と伝わる中央の石塔は鎌倉時代頃、西暦では1200年代の後半になります。海女の話は飛鳥時代ですから、実際の石塔は約600年後のものになります。海女の話は伝説であって、海女の墓石造物群の実際の歴史は研究によって解明していく必要があります。

海女の墓石造物群は現在、一辺12~13m、高さ0.6mの基壇の上にあります。この基壇の構造を明らかにするために発掘調査を行いました。

発掘調査から明らかになったこと、それはこの基壇が一気に構築されたものではなく、数百年間の時をかけて増築・修築を行い現在の姿になったということです。

基壇の下は砂地で、砂に混じり弥生土器の破片が多数出土しました。弥生土器には塩をつくるための土器も出土し、この場所が弥生時代の遺跡であることが明らかになりました。

基壇内で発見された室町時代の瓦片

基壇に関連する痕跡は室町時代頃から見られます。室町時代の瓦の破片が多数出土し、基壇を構築するために周辺の多数の瓦片を使用したことが明らかになりました。また、この瓦片から室町時代に志度寺に瓦葺建物が建造されていたこともわかりました。基壇はその後江戸時代に増築され、最終的には江戸時代の後半に現在の姿になりました。基壇からは江戸時代後半の陶磁器・陶器・瓦の破片も多く発掘され、志度を代表する焼物である源内焼の破片も出土しました。

基壇の発掘調査によって石塔の年代と基壇構築の歴史も異なることが判明しました。海女の墓石造物群の歴史の謎解きは次号に続きます。

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