新発見 東かがわ市・さぬき市の歴史5 ~海女の墓石造物群の謎解き② 海女の墓と千基の石塔~

海女の墓石造物群は海女の墓と伝わる石塔のみならず周囲には多数の石塔があります。これらは誰を供養した石塔でしょうか。

海女の墓周辺の石塔群

海女の玉取りの話の書かれている『志度寺縁起』を紐解くと、海女の息子である藤原房前が母のために奉納したとされる千基の石塔や経塔(きょうとう)であった可能性があります。今回は海女の墓と千基の石塔について見ていきます。

海女の墓は五輪塔と呼ばれる石塔です。石塔に文字は刻まれていませんが、形から鎌倉時代後期の作と考えられます。これは海女の話の時代設定である飛鳥時代よりも随分と新しい時代ですが、実は『志度寺縁起』の成立した頃と時代が合います。海女の話の創出とこの五輪塔は深く関わっている可能性があります。墓の造立場所は江戸時代前半の記録によると本堂の前にあった可能性があります。よって現在地は後世に移転された可能性が高いといえます。

千基の石塔は『志度寺縁起』には「道場の後面、海浜の前面」に藤原房前によって奉納されたと書かれています。本堂の裏手のこの場所には現在墓地が広がり、その西端が海女の墓石造物群になります。よって、海女の墓石造物群の石塔の多くはかつての千基の石塔であった可能性があります。個々の石塔の年代を見ていくと、『志度寺縁起』の成立前後頃の石塔や100年以上も後の室町時代の石塔があります。よって、これらも藤原房前の時代のものではなく、『志度寺縁起』成立前から室町時代にかけての長期間造立された石塔群といえます。海女の墓石造物群の基壇の発掘調査では、基壇上面から約1m下の砂の層から石塔の小片や骨片が複数出土しました。志度寺が建っている土地は東西に延びる小高い砂洲で、北側は海に面しています。このような地形は多くの人々の葬送の場となり、本堂の裏側は東西に長く墓地が広がっていたと考えられます。砂の層からは12~14世紀の土師器の皿等が複数出土しており、墓地は平安時代後期頃に出現した可能性があります。この年代は志度寺が「志度の道場」として文献に初めて登場する時期です。海に面した葬送の場はあの世への入口である「死度寺(しどじ)」の成立と密接に関わっていたと考えられます。

志度寺縁起に描かれた千基の石塔(本堂の裏側)

海女の墓とされる五輪塔を中心に葬送の場に造立されていた石塔群の一部を江戸時代に整備したのが現在の海女の墓石造物群と考えられます。

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