新発見 東かがわ市・さぬき市の歴史7 ~海女の墓石造物群の謎解き④ 石造物群と志度寺~
海女の墓石造物群にある2基の経塔が造立された12世紀は志度寺が「志度の道場」として文献に初めて登場する時期でした。この頃同時に「志度」の地名も初登場します。さぬき市志度は当時「志度荘」と呼ばれていました。そして12世紀後半に志度荘を治めていたのが慈円(じえん)でした。慈円は僧侶ですが、藤原北家の出身で、兄は摂政・関白の九条兼実です。そして、藤原北家の先祖は海女の息子に設定されている藤原房前です。つまり、『志度寺縁起』のストーリの成立の背景には、藤原北家の慈円が志度荘の経営に関わったことが強く影響していると考えられます。
慈円は天台宗のトップの地位である天台座主でした。このことと関わるのが志度寺に残されている天台宗の痕跡です。2基の経塔は天台宗の総本山である比叡山の横川の根本如法堂跡地から出土した銅塔に規模・性格が似ています。また、かつて志度寺の横にあった多和神社は山王八幡宮と呼ばれていましたが、これは天台宗の鎮守神である山王権現を連想させます。さらに江戸時代に書かれた「四国遍路日記」には志度寺はかつて天台宗であったことが記されています。
このように海女の墓石造物群は志度寺の歴史を解明していく上で欠くことのできない重要な遺産といえます。志度寺は補陀落(ふだらく:観音菩薩の浄土)の入口と伝わっています。志度寺の立地している場所は海に面した東西に細長い砂の高まりである砂洲です。この砂洲に12世紀頃に広大な墓地が形成されました。そして墓地の北側の海のはるかかなたに補陀落が存在すると考えられるようになりました。この入口に成立したのが志度寺であり、墓地に連綿と造立され続けた供養塔が海女の墓石造物群でした。この墓地は現在も志度寺境内の北側に歴史を継続させています。
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